いこうよ
八月の終わり。
夏はまだ終わっていないはずなのに、夕方になると、どこか秋の気配を感じるようになっていた。
校舎を出ると、太陽はゆっくりと西へ傾き、長い影が地面へ伸びていた。
校庭へ続く道には、六角形のタイルが敷き詰められている。赤、灰色、そして夕日に照らされて淡い金色に見えるタイル。その上には、木々の葉が落とした影が揺れていた。
風が吹くたびに、葉の隙間から差し込む光が形を変える。
まるで、時間そのものが足元を流れているようだった。
「……もう、こんな時間なんだ」
隣を歩いていた彼女が、小さく呟いた。
「本当だ。気づかなかった」
「今日、何時間くらい学校にいたんだろうね」
「たぶん、考えないほうがいい」
「ふふっ。確かに」
二人は笑った。
それから、しばらく何も話さなかった。
気まずいわけではない。
むしろ、何も話さなくても一緒にいられることが、二人にとっては心地よかった。
遠くから運動部の声が聞こえる。
校舎の窓には夕日が反射し、オレンジ色に輝いている。
いつもなら騒がしい学校も、この時間になると少しだけ静かだった。
彼は前を向いたまま、ふと思った。
――この道を歩くのも、あと何回なんだろう。
学校生活は、ずっと続くものだと思っていた。
朝になれば学校へ行き、授業を受け、休み時間になれば友達と話す。
放課後になれば、この道を歩いて帰る。
そんな毎日が、当たり前のように続いていくと思っていた。
けれど、そうではなかった。
気づかないうちに、一日、一週間、一か月と時間は過ぎていく。
そして、いつか必ず終わりが来る。
「ねえ」
彼女が突然、声をかけた。
「なに?」
「卒業したら、どうする?」
彼は少し考えた。
「まだ決めてない」
「そっか」
「君は?」
彼女は前を見つめた。
夕日に照らされた道の先には、校門が見えている。
「私も、まだわからない」
そう言って、彼女は少し笑った。
「でも……」
「でも?」
「このまま何も決めないのは、ちょっと怖いかも」
彼は黙って彼女の言葉を聞いていた。
未来という言葉は、不思議だった。
まだ存在していないのに、どうしてこんなにも人を不安にさせるのだろう。
何をするのか。
どこへ行くのか。
誰と出会うのか。
そして、今隣にいる人と、この先も一緒にいられるのか。
誰にも答えはわからない。
だからこそ、未来は怖い。
けれど――。
彼は足元を見た。
二人の影が、夕日に向かって長く伸びている。
少し離れていた二つの影は、歩くたびに近づいたり、離れたりしながら、それでも同じ方向へ進んでいた。
「……でもさ」
彼が言った。
「うん?」
「わからないなら、歩きながら考えればいいんじゃない?」
彼女は少し驚いた顔をした。
「歩きながら?」
「うん」
彼は前を向いた。
「立ち止まって考えても、答えが出ないことってあるだろ」
「……あるね」
「だったら、一歩ずつ進みながら考えればいい」
彼女はしばらく黙っていた。
そして、小さく笑った。
「なんか、君らしいね」
「そう?」
「うん。すごく単純」
「悪かったな」
「褒めてるんだよ」
二人はまた笑った。
その瞬間、風が吹いた。
木々の葉が揺れ、いくつかの葉が二人の前に落ちてくる。
彼女はその中から一枚の葉を拾った。
「ねえ」
「ん?」
「もし、未来で今日のことを思い出したら……」
彼女は葉を見つめながら言った。
「どんなふうに思うのかな」
彼はすぐには答えなかった。
今日という日は、きっと特別な日ではない。
大きな出来事があったわけでもない。
試験に合格したわけでも、何かを成し遂げたわけでもない。
ただ学校に来て、授業を受けて、放課後になって、二人でこの道を歩いている。
それだけの一日だ。
けれど、そんな何気ない一日こそ、いつか大切な記憶になるのかもしれない。
「たぶん……」
彼はゆっくりと言った。
「懐かしいって思うんじゃないかな」
「それだけ?」
「うん」
「なんか普通だね」
「じゃあ、君は?」
彼女は少し考えた。
「私は……」
一瞬だけ、彼女の歩く速度が遅くなった。
「楽しかったって思いたい」
彼は彼女を見る。
彼女は前を向いたまま、続けた。
「今は普通の毎日でも、いつか振り返ったときに、『あの頃は幸せだったな』って思えたらいいなって」
その言葉を聞いて、彼は何も言えなくなった。
夕日が二人の横顔を照らしている。
風が吹いて、彼女の髪が揺れた。
彼は思った。
未来のことは、誰にもわからない。
明日、何が起こるのかさえわからない。
それでも、人は前へ進まなければならない。
怖くても。
迷っても。
時には間違えても。
一歩ずつ。
少しずつ。
自分の足で歩いていくしかない。
「ねえ」
彼女がまた呼んだ。
「今度は何?」
「明日も一緒に帰ろうよ」
彼は少しだけ笑った。
「いいよ」
「明後日も?」
「たぶん」
「たぶんって何?」
「予定が入るかもしれないだろ」
「じゃあ、予定がなかったら?」
「一緒に帰る」
「約束?」
彼は少しだけ考えてから答えた。
「約束」
彼女は嬉しそうに笑った。
二人は再び歩き始めた。
校門はもう目の前だった。
その先には、それぞれの家へ続く別々の道がある。
今日も、そこで別れる。
明日になれば、また学校で会う。
そして、いつか卒業の日が来る。
その日が来れば、二人は今までとは違う道を歩くことになるだろう。
同じ場所にいるとは限らない。
同じ時間を過ごせるとも限らない。
それでも、今日という一日が消えることはない。
この道を歩いたこと。
夕日を見たこと。
くだらない話をしたこと。
未来について悩んだこと。
そして、「明日も一緒に帰ろう」と約束したこと。
それらはきっと、二人の中に残り続ける。
校門を出る直前、彼女が振り返った。
「ねえ」
「ん?」
「未来って、遠いと思ってたけど……」
彼女は夕日に照らされた道を見つめる。
「もしかしたら、今歩いてるこの一歩一歩が、未来なのかもしれないね」
彼はその言葉を聞いて、少しだけ空を見上げた。
夕焼けは、いつの間にか淡い紫色へ変わり始めていた。
「……そうかもね」
二人はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、また歩き始めた。
一歩。
また一歩。
ゆっくりと。
確かな足取りで。
どこへ続いているのか、まだわからない道を。
それでも二人は歩いていく。
いつか振り返ったときに、
「あの日、歩いていてよかった」
そう思えるように。
そして――
どんな未来が待っていたとしても。
一歩ずつ。
君と一緒に。
未来へ。








